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1990年代のゲーム機

1990年代はROMカセットに代わって光ディスクが コンテンツ販売パッケージの主力となりました。
光ディスクは読み込みに時間がかかるという難点があるものの、データ容量が大きくさらに生産性が高いので、安価にゲーム媒体を量産可能になりました。
これに伴い音質の向上やムービー再生による演出が広がり、本格的な3Dグラフィックス機能が搭載されたゲーム機が現れ、ゲーム内での映像表現の幅が劇的に広がりました。振動機能やアナログスティックを備えたコントローラも登場しました。
ドット絵に比べてポリゴンは製作コストも安く、中小の新しいソフトハウスも台頭しました。
この時期は第3・4世代の覇者である任天堂から発売されたNINTENDO64が首位から転落し、代わって新規に参入したソニーのプレイステーションが首位に立ちました。
メガドライブの後継機セガサターンは、日本では当初プレイステーションと均衡している状態でしたが、次第に劣勢となり、かつ前世代で得た海外市場での支持を失って大きく失速してしまいました。

スーパーファミコン

スーパーファミコン
1990年11月21日。に任天堂より発売された家庭用ゲーム機。
日本での出荷台数約1717万台、日本以外では約3193万台、全世界累計出荷台数約4910万台。
対応ソフトは1990年から2000年の間に1388タイトル(非ライセンス品を含まず)発売されました。開発当初は、当時最大の市場シェアを持っていたファミリーコンピュータとの互換性を維持する為の開発努力も試みられました。
実際に一部では上位互換などとも宣伝されており、発売前のモックアップでは本体横に接続する「ファミコンアダプタ」というもので互換性を保つという案も提示されていました。最終的には互換性の維持を断念し、新規プラットフォームとして発売されました
。しかしライトユーザーや大手ソフトメーカーの取り込みには成功し、既に発売されていたPCエンジン、メガドライブを超える規模のシェアを獲得。
結果的に、第四世代、16ビットゲーム機の時代でも、任天堂はメインプレーヤーの座を堅持しました。


プレイステーション

プレイステーション
1994年12月3日に株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEI)より発売された家庭用ゲーム機。
業務用ビデオゲームの分野でポリゴンによる3Dグラフィックスのゲームタイトルが流行の兆しを見せ、従来の2Dグラフィックスのゲーム機においても一部で3Dを指向したゲームソフトが出始めていた時代に、リアルタイム3DCGを家庭に持ち込み、ローンチタイトルである『リッジレーサー』や初期に発売された『闘神伝』といったゲームタイトルが好評を博し、3Dゲームの方向性を示しました。
また『ファイナルファンタジーVII』を代表とする3DCGムービーを多用した物語性の強いゲームソフトが新しいジャンルとして台頭してきました。
その結果、同時期に発売された株式会社セガ・エンタープライゼス(現・株式会社セガ)のセガサターンや、1980年代以降ゲーム機市場を独占していた任天堂株式会社が約1年半後に発売したNINTENDO64等と市場競争を繰り広げ、最終的に主導権を握りました。結果として本機の成功で、ソニーはゲーム機の世代にして2世代、年数にして10年以上の間、絶対的覇権を誇りました。


セガサターン

セガサターン
1994年11月22日にセガから発売された家庭用ゲーム機。前機種メガドライブまでの上位互換路線をやめ、構成を一新して開発されました。
同時期に発売されたプレイステーション等の、当時の「次世代ゲーム機」と呼ばれた機種と共に一時代を築きました。
また開発に関わった日本ビクターと日立製作所からもそれぞれ互換機が発売されました。
当時のアーケードゲームと比較しても高水準の2D描画機能を搭載、ポリゴンによる3D描画を用いることもできました。代表的なゲームタイトル『バーチャファイター2』はミリオンセラーを記録しました。
また、ソニーのプレイステーションとともにスプライト主体の2Dゲームからゲーム表現のパラダイムシフトを完成させました。
プレイステーションとは、発売後2~3年間に渡り熾烈なシェア争いを繰り広げ、両陣営とも度重なる値下げを繰り返しました。一方で搭載するチップが多いなど設計上のコストダウンが難しく、結果セガサターンの赤字販売が継続され、セガの収益を圧迫しました。
セガサターンの名称は、セガの第六番目のコンシューマゲーム機ということから太陽系第六惑星である土星から付けられました。


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